勇気を与えるということ

昨日、ブログ
「人生の転機には人がいる」
を書きました。

 

そのブログに対して、
「勇気をもらいました」
というコメントをもらいました。

 

この「勇気をもらいました」
というコメント

 

私も昨日のブログで
プレゼンターの6人の
チャレンジしている姿をみて
こんなコメントを書きました。

 

しかし、
自分が「勇気をもらいました」
と言われると変な感じがします。

 

自分のことに、必死で、
人に与えている余裕なんかないのに、
私が人に勇気を与えるなんて・・・
と思ってしまいます。

 

昨日、自分が人にこのコメントを
ブログに書いた後に
このコメントを自分がもらって
矛盾していることに気付きました。

 

自分がもらうと
違和感を感じるメッセージを
相手に送っているのは
変じゃないのか?

 

そこで、考えてみました。

 

「勇気」も感情ではないか?

 

そう考えた時に
勇気は湧き上がってくるものであって
こちらが与えるというのが
そもそも違うような気がしました。

 

つまり、結果として
勇気を感じるだけであって、
私が勇気を与えることなんて
できないのではないか?
と思うのです。

 

だとすると、
与えようとしても
与えることができるもの
ではない。

 

勇気を与えようという行為が
トンチンカンなんじゃないか
と思います。

 

チャレンジしていることによって
結果として、周りが勝手に
勇気を感じるのではないか?
と思うのです。

 

今回のリボーンアワード

 

テーマは【ZERO】

 

裕治郎さんはHPにこう書いています。

 

ZEROとは、
仕事で失敗をし積み重ねてきたもの
すべてを失い何もない状態の事。

ただし、すべては失ったが、
積み重ねてきた経験だけは残る。

何もなくなった後、経験を活かして、
どうのし上がっていくかで、
その後の未来が変わっていく。

今回は、
そんな経験をした5人が
皆様にプレゼンを行います。

5人のプレゼンは、
どれだけ皆様の心を震わせ、
未来の力を与えられるのか!?乞うご期待!

 

最後のところ、
「心を震わせ、
未来の力を与えられるのか?」

 

これは主催者としては、
いいですけど、
登壇者がこれを目指しても
難しい気がします。

 

まずは、自分自身が、
心を震わせ、
未来の力を感じないと
聞いていただく方に感じて
もらうことはできないと思います。

 

そうなるためには、
何かが足りない・・・

 

このままで、終わるのか?
神が下りるのか?

 

神が下りるのを信じて、
やり続けるしかない!

 

今日も最後まで読んでいただき
ありがとうございます。

 

リボーンアワードまで・・・
あと7日

 

いよいよ1週間です!

 

皆さん、応援よろしくお願いします。

 

『リボーンアワード2018』の詳細はこちら!

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